1854年にジョージ・ブールによって論理学と代数学(これをブール代数という)が結合された。
1937年にブール代数の公理系を電子回路として表現できることが、クロード・シャノンによって示される。
イギリスの数学者チューリング(Turing)は、1936年の論文でチューリングマシン(Turing Machine:TM)という仮想的概念を発表した。この論文は「論理的計算などの計算一般を完全に人工的にこなしていく、一般的なモデルを扱ったもの」であった。これは現在のコンピュータの理論的モデルとなっている。チューリングはまず人間の頭は有限の記憶能力しかないことに着目した。計算をするには、まず紙の上に書かれた記号を読み、それの繰り返しであると考えたのである。これをモデル化するに当たり、読み取りテープには記号が一列に記され、機械は一度にひとつずつの記号を読み取っていく。さらに以前に書いた記号が参照でき、書き直すこともできるものとした。
データとプログラムを同一の記憶装置に入れるというコンピュータ(プログラム内蔵コンピュータという)のことを、フォン・ノイマン型コンピュータと呼ばれる。呼び名からフォン・ノイマンが発明したかのように思えるが、実際には違う。真相はこうだ。
まず、エッカートが容易に再設定可能(ただし読み取り専用)の構想プログラムメモリをEDVACに使うことを議論しだした。その後で、フォン・ノイマンはそれを読み書き可能なプログラムリにすること、即ちプログラム可変内蔵方式の議論を始め、それがバークスによって記録され、EDVACの報告書の第一草稿となった。ところがその後フォン・ノイマンはEDVACの報告書に自分ひとりの署名で書き表し、それが評価を受けることでフォン・ノイマンひとりが名声を得ることになったのである。このことで、当初からENIACと共にEDVACの開発をしていたモークリーとエッカートは、新参者のフォン・ノイマンと関係が悪化した。
1950年(昭和25年)に初めて真空管を作ったコンピュータが作られ、その数年後に日本も試作してTACと名付けられた。
1960年(昭和35年)頃にはトランジスタの時代になり、その技術によりコンピュータが作られるようになってコンピュータの価格も下がり、大学・大会社・政府機関が集中方式で汎用コンピュータのセンターを設置するようになった。冷房のきいた特別なコンピュータ室で何人かのエリートが操作して、一般の人はそこに頼んで仕事をしてもらうという構図であった。
1963年(昭和38年)に、アメリカのDEC社からPDP-4という小型コンピュータが発表された。その後、間もなくして1,500万円で買えるPDP-8が登場し、一世を風靡する。サイズは少し小さくなり、機能も多少大型と比べると劣ることからミニコンピュータ(ミニコン)と呼ばれ、各工場や小さい研究所などで使われ始め、急速に普及し始める。
トランジスタの時代が終わると、半導体のICの時代になる。いくつかのトランジスタ・抵抗器・コンデンサなどを半導体の小さなウエハーの上にサイズを小さくして集めたものをICと呼ぶが、数ミリ角の半導体の層を用意し、写真のネガの原像と同じように不要の部分を溶かして、トランジスタの働きをする必要なところを残すようにして作ったものである。よって、ネガ写真が1枚あれば同じ写真が何枚でも作れるように、IC回路は同じようなやり方で多数のICを同時に作ることができる。原図の回路設計は大きく描き、写真技術の発達でこれを5mm角ぐらいに縮小できるようになったことがICの発達の大きな要因と言える。
1960年代後半から1970年代前半にかけて、電卓のLSIが発展する。これをきっかけにCPUという概念が登場する。そして、登場した最初のCPUが4004である。1971年末には、当時「100$コンピュータ用LSI」ということで大きな 衝撃を世界に与えた。
8080が発売されたその年に、MITSという小さな会社の技術者エド・ロバーツがマイクロコンピュータAltair(アルテア)を作った。このマイコンを作るにあたり、ロバーツは雑誌『ポピュラー・エレクトロニクス』の編集者からマイコンの製作を問い合わされ、その1975年1月号に間に合うように大急ぎでアルテアが作られた。Altairの特集は大反響を呼んだ。Altairは外見上はスイッチをLEDが並んでいるだけの箱で、このスイッチのON/OFFして機械語のプログラムを入力すると、出力装置であるLEDが点滅する仕組みであった。ところが若者にとっては、キット価格で397ドルという安い値段でマイコンが手に入るのは大変魅力的・刺激的であったのだ。ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブスも、学生の頃『ポピュラー・エレクトロニクス』を読んでおり、特にAltairの特集に影響を受けた。
実際にビル・ゲイツは仲間のポール・アレンと共に、Altair上で動くBASICを開発した。そのときの逸話がある。実はAltairの出荷も、自分たちの開発も始まっていないうちに、すでにプログラムはできているとはったりをかまし、Altairの発売元のMITSに売り込んだ。その後8週間かかりAltair版BASICを完成させて、MITSに持ち込むと見事に動いたわけだ。彼らがまずPDP-10(世界初のMPUの動作を再現するプログラム)を書き、そこでAltair用BASICを完成させた。このようにすることで、実機にすることなく、Altair用BASICを作ってしまったわけだ。彼らはこれを販売するソフトウェア会社のマイクロソフトを設立した。
1964年に、米アップルコンピュータ社からマッキントッシュ128Kが発表された。
1977年にAppleやPET2001が登場する。その頃からパソコンが一般の人の間にも普及し始める。
これはロボットのイメージの遍歴にも大きな影響を与えたと推測できる。実際にこの時代のロボットデザインは、非人間型の動くパソコンのような雰囲気が主流であった。