・一般的にカモとは財布を携帯している人を意味する。しかし、本物のスリにいわせれば、財布を携帯している男性だけがカモである。女性だけを狙うスリや女性から盗むのを仕事の一部と心得ているスリもいないわけではないが、本物のスリは女性からは盗まない。むしろ、一流のスリは女性から盗むという話を聞いただけでも嫌な顔をするだろう。
男性をカモに選び、女性をカモにしないのは、騎士道的精神とはまったく関係ない。スリは潜在的にゲイの傾向があるので、無意識に女性をカモにするのを避けるという説もあるが、これもまったく根拠がない。これを古代からの行動様式に対する彼らなりの適応と考えることはできる。
・スリはカモを大きく3つに分類している。30歳前後の男性のカモ（俗に卵という）、40歳以上の男性のカモ（俗に青二才という）、年寄りの男性のカモ（俗にオヤジという）の3種類である。カモの歩調や衣服の着方、所持している金額、警戒心、スリに気づいたときの反応、そのほかの要素が綿密に計算され、カモを攻略するための手はずに盛り込む。そういったことで、年配者のカモは狙いやすい。年配者は反応が鈍いからである。
金を持っていそうなのは中年の男性である。実際に金持ちであるかどうかは、服装、鞄、マナーで判断する。逆に若い男性はあまり金に縁はないし、暴力を好まないスリにとって危険な存在である。
スリ団の中には、警察関係の人間からは盗まないようにしている者もいる。地元で稼ぐために警察と何らかの取引をする必要があるスリ団に、こうした傾向が見られる。とはいえ他のスリ団、特に熟練者で構成される巡回スリ団の場合は、勤務から外れている警察官ならだれであろうと遠慮せずにカモにする。
・昔はカモが身に着けている宝飾品は、スリにとって魅力的であった。しかし、今は何とか食いつないでいる三流のスリ以外に、宝飾品を盗むスリはいないといっていいだろう。一流のスリ団は、宝飾品を狙うにしても高価なダイヤモンドや高級腕時計に的をしぼる。現金の実入りが多いのに、わざわざ宝飾品を現金化する苦労や危険を背負い込みたくないからである。それに現金なら盗んでも証拠が残らない。
・アメリカの警察用語では、スリのことをツールまたはディップと呼ぶ。
また、相棒と組むスリたちのことをストールと呼ぶ。スリの作業を周囲に見られないように、様々な方法で煙幕を張るのもストールの役目である。
スリはまた、ランナーと呼ばれる者と組む場合もある。ランナーの役目はその名の通り、抜き取ったすぐに品物はランナーに密かに渡されるのだ。万が一スリ実行犯が捕まったとしても、品物を持っていなければぶつかっただけと言い逃れができるからである。
さらに、スリはたいがい現金以外の品物を卸す業者を決めているものだ。これらの業者は俗にフェンスと呼ばれる。フェンスに品物を卸す場合、例えばトラベラーズチェックであればスリは額面の30〜40％、宝石類は一般的な販売価格の約25%に当たる額をもらうのが通常である。
スリの技術は、何千年ものの歴史を持つ。もちろん歴史的記述が残されているわけではないので、確実にいつ始まったとはいいがたい。しかし、おそらく両手をいつでも使えるようにポケットなるものが考案され、小銭を持ち歩くようになって以来と推測される。きっと機転のきく泥棒がその様子を見て、「これなら工夫して鋭敏に動けば、お宝を自分のものにできる」とでも考えたんだろう。
そして、年月を経てスリの技術や方法は洗練され、複雑化していったのである。一時期は貴重品を持ち歩くのが非常に危険な賭けになってしまったほどである。それほどスリが横行していた時期があったのだ。例えば、ヴィクトリア王朝時代のイギリスでは、スリは第一級の犯罪とみなされ、捕まれば広場で絞首刑に処された。それは、将来有望な若者が一人でもこの邪悪な道に走るのをなんとか阻止するために考え出された苦肉の策であろう。しかし、当時からイギリスの警察の要だったスコットランド・ヤードはまもなく、この作戦を放棄する羽目になってしまう。処刑を見に訪れた見物人たちが、財布や時計の紛失を多数訴えるようになったからである。
近代になっても事態はたいしてよくなってはいない。1987年現在、パリ市内だけで6万件のスリ事件が訴えられている。また、ニューヨーク市警察詐欺および特別対策班のケネス・クラインレン氏はニューヨークでは年間50万件以上のスリ事件が発生していると推定した。観光客にとって最も安全と思われ、国民の誠実さを誇っている日本の東京でさえ、スリによる被害が年間6,000万ドル相当もあるらしい。
・簡単で大きな利益を手中に収めれるだけでなく、比較的安全で、罪が軽いことが、スリが横行する理由である。当然稼ぎには個人差はあるが、スリの技法を習い、それらを勤勉に練習すれば、誰でもある程度の腕のスリになることができるのだ。腕前のよいスリは年間2,000万〜3,000万稼ぐのは朝飯前らしい。
・用心を怠らず、仕事を途中で放棄する引き際をわきまえることでスリは、捕まる確率を大幅に下げられる。なにしろ捕まるのは、スリの全体のわずか25%にすぎないといわれている。
・そのうえ動かぬ証拠がないと起訴に持ち込めない現代の法律では、スリを有罪にするのは不可能に近い。そういう意味でもスリは、法的にかなり安全といえる。アメリカではスリを未然に防ぐのを目的に、他人とぶつかることを違反とする法律を定めた州がいくつかある。
・プロのスリ（昔気質のスリ）は、片手だけ、厳密には器用な2本の指だけで勝負する。
・2本の指（人差し指と中指）で、スリは蟹のようにはさみを作る。指を左右に動かして、はさみの刃のように閉じて、ターゲット（俗に求婚者と呼ばれる）のポケットの中の財布その他をつかむ。
・スリは通常、手の甲を相手の体に向けた状態にしてポケットに滑り込ませる。ポケットを体から浮かしやすくし、体に触れてしまう危険を避けるためである。
・親指、薬指、小指は軽く曲げ、必要に応じて動かしてポケットの中のしわを伸ばして、はさみの出入りおよび仕事を助ける。
・スリにとって最も価値のある資本は自分の手である。スリはできるだけ、日常の仕事で自分の手をわずらわせまいとする。
・一人で行う場合もあれば、複数で寄ってたかって目をくらませたりもする。
・女性のスリなどは大概たくみに女の武器を利用して、目くらましを成功させる。偶然を装って胸や尻をカモに押し当てて、相手が呆然としている間にいともたやすく貴重品を取り上げてしまうのだ。
これは、カモの洋服に何かをこぼすという手口である。できれば、熱い物がよい。汚れをきれいさっぱり落とす手伝いをすることで、カモのお宝をきれいさっぱり抜き取るのに絶好の機会を生み出せるのだ。土地柄なのか、カモの服にケチャップを浴びせるのがポピュラーな都市もいくつかある。誠意のありそうな顔で、「不器用でごめんなさい」と相手の許しを必至に乞いながら、しれっとお宝を抜き取るのである。
物をかけるという意味では同じだが、中にはもっと下品な手口を使うスリもいる。カモに唾を吐きかけて、詫びながら財布をスリ取るのである。
困っている人を親切に助けるふりをして財布をスリ取るというのも、古典的な目くらましの手口である。老人ほどこの手で引っ掛けやすい。なにしろ本当に助けを必要としている可能性が高く、手を差し伸べたとしてもまったく怪しまれないで済むのである。そのうえ若い人より間隔が鈍くなっているため、それだけ本人に発見される確率が低いのである。
また、これの変形版で、あらかじめお金を地面に置いておき、「落とされましたよ」と声をかけるのもポピュラーな手口である。カモがお金を拾おうとすると、人ごみの中からスリの共犯者が現れて、「落としたのは自分だ」と主張する。落ちていた金の所有権をめぐって2人が言い争っている間にスリは、カモの有り金を我が物としてしまうのだ。
もうひとつ、古典的だが、現在でもよく使われている手口がある。特にローマではポピュラーらしい。スリはわざと、観光客のレンタカーのタイヤに穴を開けておくのだ。レンタカーの主が困っているとスリが、時には複数で「タイヤの交換、手伝いますか」と親切ごかしに酔ってくる。渡りに船とばかりにスペアタイヤを出そうとトランクを開けた途端、あっという間に荷物を持ち逃げされてしまうのだ。
あまり見られない手口だが、うまくやれば成功する確率のわりに高い方法である。まず、体が不自由なふうに、または非常に醜い姿に変装したスリが、車椅子や松葉杖をついてカモに近づく。健常体の人間は意識的に障害者とは目を合わせないようにすることは、よく知られた現象である。この心理を利用して、被害者が懸命に障害者の存在に気付かないふりをしている間に、スリはいともたやすく財布を抜き取ってしまうのである。
作り物の腕を使って骨折しているかのようにギブスをはめ、自由になった手で近くのポケットを探るスリもいる。
この手口の成功・失敗はひとえにスリの演技力にかかっている。
ひとつの方法では、スリには変装することが求められる。牧師、医者、教師などのいわゆる聖職者なら何でもよい。そして、いかにもそれらしい会話に相手を引き込みながら、財布までも自分の懐に引き込んでしまうのだ。この種の手口には、かの有名なメアリー・エレン方法が含まれる。メアリー・エレン方法を用いるスリは大抵3、4人で組んで行動し、ネオンのきらめく怪しげな地帯に出没することが多い。全員で酔っ払いを装い、その辺をふらつく。そうして金を持っていそうな二人組みを見つけると、陽気に絡んでいき「今、すごくいい女に会ったんだよ」とくだを巻く。酔っ払いというものはえてしてなれなれしく、話している相手にやたらに障りたがる。つまりごく自然に気付かれることなく、財布を抜き取れるのである。こうして実在メアリー・エレンの手練主管の話に夢中になっている間に、カモはポケットの中身を失うのだ。
今まで述べてきた種類の目くらましの手口には、事前に計画を立てたり考えをまとめておく必要がある。しかしときには、突然目の前に絶好のカモが現れ、計画を寝ている暇などない場合もある。そのようなとき、有効な目くらましを見出すためにスリが頼りにできるのは、経験に培われた反射的行動だけである。
とっさに行われる様々な目くらましの中でもっとも頻繁に見られるのが、いわゆる「ガキ大将」タイプである。カモの帽子や眼鏡を叩き落すのだ。カバンを落とさせる場合も在る。もちろんわざとらしく見えないように事故を装う。この行動によってカモは憤慨するが、同時にまごついてしまう。つまり、スリにとって仕事がしやすくなるわけだ。
・カモのズボンのポケットから物を盗むときに使われる手法。
・スリはカモの後ろに立ち、人差し指と中指でV字の形を作り、そっとポケットに差し入れる。スリ曰く、「この時点では、指はポケットに入っているともいないともいえない状態だ。つまり、財布には触れているが、相手に感じられるほどではない」。そして、ぶつかった目くらましの手口を使うなり仕手、カモの気を逸らし、その隙に財布をつまんで引き抜く。
・スリはこれをすばやく、勢いよくやってのける。決して慎重になったり、おずおずしたりせずに。
・スリは膝を使い、カモの財布をポケットから頭が出る程度にまで押し上げてしまう。後は、その財布をつかんでじっとしているだけ。歩きつづけていることでカモは気付かぬうちに、財布を奪う作業に自ら加担してしまうのである。つまり、カモは前進し、財布はその場、即ちスリの手に残されてしまうのである。
・うまいスリは膝を使わなくても、これと同様の手口をうまく実行する。
手だけ動かないように固定し、ゆっくりとつま先立ちになる。ただし、この技法で被害者に違和感を抱かせずに盗みを成功させるには、目くらましや人混みの押し合いの中で行わなければならない。
・押し出しとは、長い列に並んでいるときや長距離バスの中など、長時間1箇所に留まっていなくてもはいけない状況下で使われる技法である。
・その時間を利用してスリは財布を少しずつ少しずつ押し上げ、最終的にポケットから自然に出てくるのを待つ。
・ある元スリはこの技法について、「本当にそっとそっと押し上げていかないといけない。しかしそれだけではきりがないから、ときには思い切って強く出す。怪しまれないコツは、強く押した後で相手に必ず両手を見せること。見て見てとアピールするわけではなく、あくまでさりげなくする。見せるというより、見えるところに出しておくという感じ。怪しまれたら、それまでだから」という。
・相手がピッタリしたズボンをはいている場合にも、この技法は有効である。
ズボンが肌に密着しているため、どのような目くらましを活用しても二本指抜き技法を使うと気付かれてしまう。ぴったりしたズボンから財布を抜き取る場合、相手を強く殴って気を逸らすこともある。しかし、スリは基本的にピッタリしたズボンをはいている人物は避ける。
・まずケガをしないように刃だけのカミソリにテープを巻いて、つまみのようなものを作る。これを使って単純にポケットを四角く切り取ってしまう。そうすれば他に手を加えなくても、財布は自然と落ちてくる。
盗んでくれといっているような状態
・生地の厚いズボンなら、ワイヤーカットを併用する。
もっと効率のよい方法としては、まず小さなワイヤーカッターを使って、後ろポケットの上部の真中のステッチに切り込みを入れる。そして、次にカミソリを使い、ポケットの下まで切り裂く。こうすればたとえ落ちてこなくても、いとも簡単に財布を抜き取れる。
中の財布がクッションとなり、被害者にはまったく気付かれないうちに、作業ができるというのが、この技法の利点である。
・ボタンや蓋のあるポケットを狙うときも切り込みは威力を発揮する。
・切り込みはまた、前ポケットを狙うときにも役に立つ技法である。カモの注意が狙っているポケットとは反対方向に向けられている間に、スリは仕事に取り掛かる。前ポケットの下部に半円形の切込みを入れる。するとポケットの中身などはこの穴からすべて滑り落ちてしまう。
もちろん、狙った相手がピッタリしたズボンをはいている場合を除く。
・たぐり上げは、前ポケットを狙うときに用いられる技法である。
・まず、親指と人差し指を入れるか入れないか程度に相手の前ポケットに忍び込ませる。そうして少しずつ少しずつ裏地を持ち上げる。この動作によってポケットに小さなしわができていく。持ち上げる動作を何度か繰り返しているうちに、ポケットは完全に捲れあがる。そうなれば中身はあらわになり、難なく抜き取れるだろう。
・欠点は、多少時間がかかることである。とはいえ数分でOK。
・一般的なスポーツジャケットや背広には普通スリの的となりうるポケットが4つある。左右のハンドポケット、内ポケット、そして胸ポケットである。
ハンドポケットはズボンの方法の応用、胸ポケットは楽勝で物を取ることができる。となると残されたのは内ポケットである。内ポケットから盗み出すにはちょっとしたコツや技法がある。
・まずはズボンに財布があるか調べ、なければ背広の内ポケットにあるだろうと当たりをつける。
・スリは最初に財布がどちらかの内ポケットに入っているか見極めなければならない。最近のジャケットは両側に内ポケットがついているので、前もって少し詮索する必要がある。
詮索のひとつとして、偶然を装ってぶつかるというのがある。突き飛ばすような形で、手の平で軽く内ポケットの辺りを上から押すのだ。これだけで財布のありかが判明する。
この方法が無理なら、尾行して財布をしまう行動まで待つか、利き腕から当たりをつけて推測する。
・内ポケットからの盗みを成功させるコツは、別のところへ注意を向けさせることである。内ポケットの中身を狙う場合は正面攻撃となる。そのため相手の注意を逸らし、顔をよそへ向けさせる必要がある。でなければ、肝心の抜き取り作業を見られてしまう。
・もっとも一般的な内ポケットからの抜き取り方法は、襟の折り返しを軽く持ち上げ、指を内ポケットにもぐりこませる。この作業はジャケットを体から離す役割も果たす。この技法を実行するには、注意を引きつけておく共犯者が必要。
・例えば、財布が入っていると思われる内ポケットとは反対の肩に粉をふりかけ、「何かついてますよ」と伝える。相手は当然それを払おうと、逆の腕、即ち狙われている内ポケットのある方の腕を肩にやるだろう。被害者はこの動作で、自らスリの作業を覆い隠してしまう。この方法なら、一人でも可能である。これを成功させるコツは、いうまでもないがすばやくやることである。
・酔っ払いの振りをして、正面きってカモにぶつかっていき、内ポケットを狙う方法もある。これなら自分の体を盾にして作業を隠せる。この技法はキッシングドッグ（キスをする犬）と呼ばれている。
・腕時計を盗んだことをカモにばれないようにする方法としては、手による圧迫であたかも腕時計を盗んだ後も、腕時計をしているかのように錯覚を起こさせることである。実際にこんなことが可能かどうか実験してみよう。
まず、腕時計をはめるように手首を乗せる。留め金を締める必要はない。ただ手の平を下に向けて、時計を手首に乗せればよい。
次に、もう片方の手をその上に乗せ、1,2分強く押さえつける。
そして、急に時計を取り除く。どのような感触だろうか？ まだ腕時計がそのまま手首に乗っている気がするのではないだろうか。この方法を基本として、後は様々な目くらまし手口や握手のような強い刺激を与えることで、腕時計を奪ってしまうのである。
・スリは金属より皮製のバンドを好んで狙う。皮製のほうが扱いやすいからだ。革バンドの腕時計を抜き取る場合、スリは可能な限りカミソリや小さなハサミで切り離そうとする。しかしながら場合によっては、バックルはずし技法を行使する。バックルはずしが得意なスリなら、1秒ほどで革バンドの腕時計を掠め取ってしまえる。
もっとも一般的にバックルはずしが行われるのは、ごく普通の握手の最中である。しかし、抜き取り作業そのものは、混雑にまぎれて行われる場合も在る。
まず、スリは左手を差し出し、握手を求める。なぜ左かというと、ほとんどの人がその手に腕時計をはめているからである。
次に、右手でカモの手口をつかむ。両手で握手するのはそう珍しい行動ではないので、怪しまれることはない。
そして、相手の眼をじっと見つめて「はじめまして。よろしく」といいながら、その間にバックルをはずしてしまうのだ。
・そのバックルはずしの手順は次の通り。
1：まず右手でカモの手首をつかむと同時にバンドの端に指を伸ばし、そのままバックルから押し出す。
2：自由になったベルトの先をつまんで軽く引っ張れば、針は自然と穴からはずれる。
3：そのまま親指を下ろせば、針が再び穴に入ることはない。
4：さらに親指を使ってバンドをバックルから押し出すと、時計は腕から外れる。
・腕時計を専門に狙うスリは大抵ポケットに松脂のようなものを持ち歩いている。バックルはずしをすばやく行うように、指をすべりにくくするためである。万一松脂を忘れたときにはヘアスプレーを指先に噴射すれば、なんとかなる。
・金属腕時計を狙うなら、金属バンドをワイヤーカッターで切ってしまうことも多い。しかしこれでは少し乱暴すぎる。それに発見されないですむ確率はほぼゼロに近い。そこでやっぱり手動によって金属バンドをはずすのがよい。しかし、革バンドと違って、金属バンドの場合は文字通り手から抜き取らなければならないので、スリは様々な制限や障害にぶつかる可能性が高い。
革バンドのときと同じように、ここでもスリは左手の握手を利用する。金属バンドの場合、右手をカモの手首に添えると同時に、人差し指を時計部分の下に潜りこませる。握手を終えて両手を離そうというときに、滑り込ませた右人差し指でバンドをわずかに浮かせ、左手中指、薬指、小指の3本をバンドの内側に入れてしまうのだ。こうしてバンドを手首から浮かせたままの状態で、今度は右手の中指、薬指、小指の3本を滑り込ませる。これでバンド全体が手首から離れた状態になったわけである。そして注意深く、しかしすばやく、バンドは手首と手の上を通され、これまたすばやくスリのポケットに落とし込まれる。実際には、スリはこの説明した一連の動作を1秒もかからずにやってのける。
・腕の立つスリなら、時計を抜き取るついでにカフスも奪ってしまうこともある。ただし、カフスにそれだけの価値があるという前提があるが。
・ポケットからスリ取るのと違い、時計盗みはかなりの修練を積まなければならない。
・「暴力を用いて盗むとき、窃盗犯は強盗となる」《エーリヒ・ヴルフェン》
・スナッチ・アンド・グラブ（ひったくり、ひっつかむ）と呼ばれる暴力的な窃盗犯は、本来の意味でのスリではない。
・上着やかばんを切り裂く手口もある。道路や蚤の市の雑踏の中、デパートや地下鉄のエスカレータで、あらかじめ札入れや財布の存在を確かめておいたポケットの底に鋭い刃物を当てて切り裂いて、滑り落ちてきた獲物を盗むのである。
・生きたマネキン（仲間やバイト君）を用意できなければ、本物のマネキンを使うという手がある。多種多様な服を着せて腕試しができる。例えば、スラックスのポケットからの抜き取りを習得したら、次の段階としてマネキンにジーパンをはかせて練習するなど。
しかし、マネキンから感想を聞くことは無理なので、最終的には人を使って練習が必要だが…。
・一番安価な方法は、椅子の背もたれに背広や服を着せて、それで練習する。
・椅子の種類によっては、肘掛けを腕時計スリ取りの練習台として使える。
・かつてナポリでは、スリの技術を専門に教える養成学校が発見されたこともある。
学校の中には服を着せられたマネキンが何体もあり、それぞれ鈴やら鼠取りといった罠が仕掛けられていたらしい。生徒が無駄な動きをすると反応するわけだ。この他に、腕時計をはめたマネキンもあったという。
・駅のホームで人差し指と中指の屈伸運動ばかりしている人がいたら、スリかもしれない。
・混み合った中で流れに逆らって移動する人は、スリかもしれない（スリにとって好ましい状況）。
・チョッキのポケットを閉じる。
・財布を持たないこと。財布というのは、考えられる限りで最も役に立たない代物である。財布を盗まれてしまえば（落とすことも含む）、中に入れていたものを財布もろとも全部失うことになるからである《フランソワ・ヴィドックの言葉》。
・財布が入っているポケットの中に2，3個のクルミを入れておく。スリが財布を抜き出したときにくるみが転がり落ちて、注意を促してくれる。
・たたんだお札の間にコインを挟んでポケットに入れておくというのも効果的。
・ズボンの前ポケットは安全な保管場所。ズボンの後ポケットと上着の内ポケットは最も危険。
・安全ピンで上着の内ポケットを閉じるという方法もある。スリは、指先がこの障害にぶつかると、あわてて手を引っ込める。この方法は、「シカゴ・トリビューン」紙でも推薦されている。この手法は俗に「釘」と呼ばれる。
しかし、腕の立つスリなら、安全ピンなど2，3秒で簡単にはずせてしまう。それに安全ピンで留めてあれば、かなりの大金が入っていると期待させてしまう可能性もある。
・地元から出てきたカモがよく使うのは、大金を入れた上着の内ポケットやズボンのポケットの入り口を縫い付けてしまう手法である。しかし、これも大金が入っていることをスリに教えてしまうようなもので、かえって大きな災いを呼びかねない。
・財布を鎖や紐でつなぐカモもいる。しかし、熟練したスリは、そんな鎖は簡単にねじ切ってしまうだろう。懐中時計の鎖をはずした経験のあるスリにとって、財布の鎖をねじ切ることなど朝飯前である。
・「スリにご注意を」という警告の表示ほど、スリにとってありがたいものはない。雑踏の中でこっそり服の上から探ったり、金融機関で盗み見たりする手間が省けるからである。スリによってはわざと「スリには注意」（「泥棒！」「スリにやられた！」という叫び声も同じ）と声を発して、それに反応した人（ポケットに手を当てた人）をターゲットにすることもある。
・「ここでスリに遭うかもしれない」という心構えは、常に最上の防衛になる。
