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*目次 [#sd2dd148]

#contents


*新撰組 [#s9436c46]

-[[日本]]において組織の名に価するものは新撰組が開祖。
--藩は人を養っている機構であって、ある統一的な目的をもったシャープな組織であはない。
-新撰組のシステムは軍隊の制度そのままなので、[[オランダ]]や[[フランス]]の中隊制度から学んでいると推測される。
--ヨーロッパの軍隊では、副長は中隊長、助勤は中隊長を補佐する中隊付将校である。中隊付将校はまたそれぞれの小隊を指揮する小隊長である。
--新撰組のシステムはこれをさらにアレンジして、中隊長の上に統率者を置いた。そうすれば、責任は全部副長のところに来て、副長が腹を切れば済む。つまり、責任は副長のところで止まる。
---統率者が局長である[[近藤勇]](ただし、[[芹沢鴨]]【せりざわかも】の暗殺後)。指揮者は副長の[[土方歳三]]。局長を神聖視して上に置き、現実に手を汚す指揮は副長が行う。その副長に助勤が付く。
-幹部は別として、金も女気もない下っ端は衆道に走る者も少なくなかった。
--近藤が故郷の門人の中島次郎兵衛【なかじまじろうべえ】宛に送った手紙では「最近は女遊びをすることもなくなり、局中でしきりに男色が流行している」と書かれている。
--新撰組において有名な男色家のひとりは、武田観柳斎【たけだかんりゅうさい】がいる。

*新撰組の成り立ち [#r5802136]

-文久3年1月7日に、[[清河八郎]]の提案が幕府に採用され、[[浪士組]]の募集が開始される。
--文久3年とは、嘉永6年に起きたペリーの黒船来航からちょうど10年の歳月が経ったときであった。
---この10年の間に、外国の脅威に対する徳川幕府の無能ぶりは明らかになり、特にアメリカに迫られるままに不平等通商条約が結ばれてしまった。
---この条約により、外国との貿易が始まると、日本の経済は混乱し、物価が暴騰し国民生活が苦しくなり、不満は高まった。なぜ物価が上がったのかというと、その当時の日本の人口が関係する。当時の日本の人口は3,300万人ぐらいと推定されている。資源の総生産陵は限られていたので、その3,300万人を養っていくのが精一杯であり、海外へ輸出できるような余剰はなかったはずなのである。それが突然外国との貿易が始まり、国内で物資が不足することになり、異常な物価高が国民を襲ったのである。
-文久3年2月23日、浪士組は京都郊外の壬生【みぶ】村に分宿する。そこで清河は、浪士組を前に、浪士組の結成の真の目的は[[尊皇攘夷]]ということを宣言する。
--近藤ら13名は異議を唱え、浪士組の最初の目的は将軍の警護をするためであると主張し、壬生村に残る。一方、清河たちと江戸に向かった隊士は200人あまりいた。
--ここで2つのグループに分かれたということだが、近藤と清河は共に尊皇攘夷の点では一致していた。問題はその方法論である。近藤の立場は佐幕といわれるもので、朝廷と幕府が一体になり、これまで同様に幕府が朝廷の信任の元に攘夷を行うのがよいという考え方である。一方、清河の立場は倒幕といわれるもので、今の幕府は駄目だから早く幕府を倒して、朝廷を中心として幕府に代わる政権を作り、攘夷を決行しようとする考え方である。
-文久3年3月12日、近藤以下、京都に居残ることを決めた浪士たちは、京都守護職を務めていた会津藩の預かりとなり、壬生浪士屯所の看板を掲げる。
-文久3年4月21日、将軍[[徳川家茂]]が京都から大坂に赴いたときに、壬生浪士組は警護を行う。
-文久3年8月18日、会津藩と薩摩藩は連合し、朝廷の実権を奪うことに成功。八月十八日の政変である。
--それまで朝廷内に勢力を持っていた長州藩と急進派の公家たちは追放される。
--そして、御所の警護を命じられた壬生浪士組は、会津藩から以後京都市中の見回りを命じるという内命を受ける。そのときの通達に記された隊の名が''新撰組''である。会津藩の別働隊として、正式に存在が認められたときであった。
---新撰組という存在の特異性を表すことにもなっている。新撰組は当初から明快な目的意識と強固な党派的結合を持って新撰組として出発したわけではなく、幕末の複雑な政治情勢の中で自然発生的な生まれか方をしたといえるからである。
---幕末の京都においては尊皇攘夷の浪士といえば、自動的に反幕府の立場として受け取られるにも係わらず、新撰組は佐幕という尊皇攘夷を含む立場である種異端的な存在として捉えられていた。


*新撰組における事件 [#a6956b90]

-[[池田屋事件]]
--このときの活躍により、幕府側から絶大な評価を得て、名声を高めた。そして、新撰組が佐幕派の尖兵という立場が確立した。
-[[伊藤甲子太郎]]の一派が加入
-[[伊東甲子太郎]]の一派が加入
--以後数度に渡って隊士の募集が行われ、新撰組の隊士の数は130名を越えることになった。
---200〜300人というと江戸時代の中規模の藩の勢力に匹敵する人数である。
---こうした規模の拡大化は、それまでの同郷・同門意識に基づく同士的結合だけでは組織の維持ができなくなっており、禁令と呼ばれる規則が作られた。
-第二次長州討伐
--長州藩に対する訪問使の一行に近藤は同行を許される。目的は長州に潜入して藩内の実情を探ることである。補佐としては伊藤が付いて行った。近藤たちは広島に到着し、長州に入国するための交渉を開始するが、頑固として拒否される。
--長州藩に対する訪問使の一行に近藤は同行を許される。目的は長州に潜入して藩内の実情を探ることである。補佐としては伊東が付いて行った。近藤たちは広島に到着し、長州に入国するための交渉を開始するが、頑固として拒否される。
--これまで公武合体派として幕府側に立っていた薩摩藩も、幕府を見限っていた。そして薩摩藩の[[西郷隆盛]]と、[[坂本竜馬]]や[[中岡慎太郎]]の仲介によって、薩長同盟が結ばれる。
--その後、近藤は再び広島に出張する。このとき、伊藤とその仲間たちは、近藤とは別行動を取り、各地で幕府に反対する発言を繰り返すようになる。つまり、伊藤たちは新撰組隊士でありながら、幕府を見限り、倒幕の姿勢を表し始めたのである。
---もっとも伊藤たちは新撰組に加入するときに、その目的はあくまで尊皇攘夷であることを確認している。近藤たちにとっても尊皇攘夷には異論がないため、両者は結託したが、その方法論について分裂し始めたのである。ここで、新撰組が持っていた二律背反的な性格の矛盾が露呈してきたのである。
-伊藤派の分離
--伊藤たちは新撰組から脱退する。
---伊藤は崩御した孝明天皇の墓陵を守る御領衛士【ごりょうえじ】という役職を受け取っていたので、近藤たちも分離を認めざるを得なかった。
--伊藤たちの分離して3ヶ月ほどして、新撰組は幕臣に取り立てられるという内示を受けた。近藤は見廻組与頭格【みまわりぐみよがしらかく】として、直参【じきさん】旗本になることが決まった。これによって、新撰組は幕臣ということになり、倒幕派との対立はより鮮明になった。
-[[伊藤甲子太郎]]の暗殺、油小路の事件
--[[坂本竜馬]]が暗殺された3日後に、新撰組は伊藤甲子太郎を暗殺した。
--その後、近藤は再び広島に出張する。このとき、伊東とその仲間たちは、近藤とは別行動を取り、各地で幕府に反対する発言を繰り返すようになる。つまり、伊東たちは新撰組隊士でありながら、幕府を見限り、倒幕の姿勢を表し始めたのである。
---もっとも伊東たちは新撰組に加入するときに、その目的はあくまで尊皇攘夷であることを確認している。近藤たちにとっても尊皇攘夷には異論がないため、両者は結託したが、その方法論について分裂し始めたのである。ここで、新撰組が持っていた二律背反的な性格の矛盾が露呈してきたのである。
-伊東派の分離
--伊東たちは新撰組から脱退する。
---伊東は崩御した孝明天皇の墓陵を守る御領衛士【ごりょうえじ】という役職を受け取っていたので、近藤たちも分離を認めざるを得なかった。
---伊東たちが勤王陣営にはしったのは、薩長の秘密同盟の影響がである。伊東一派は薩摩藩の庇護を受けており、御領衛士の賄【まかな】いは薩摩藩から出ていた。
--伊東たちの分離して3ヶ月ほどして、新撰組は幕臣に取り立てられるという内示を受けた。近藤は見廻組与頭格【みまわりぐみよがしらかく】として、直参【じきさん】旗本になることが決まった。これによって、新撰組は幕臣ということになり、倒幕派との対立はより鮮明になった。
-[[伊東甲子太郎]]の暗殺、油小路の事件
--[[坂本竜馬]]が暗殺された3日後に、新撰組は伊東甲子太郎を暗殺した。
---ただし、坂本竜馬を暗殺したのは新撰組ではない。
--その後、伊藤の遺体の奪還を巡り、御領衛士たちと新撰組は京都市中の油小路で乱闘を繰り広げた。その結果、御領衛士たちは壊滅的打撃を受ける。
---[[永倉新八]]の『新撰組顛末記』によれば、「近藤は藤堂はできるならば助けるように永倉にいった」と記されている。かつて同じ道場仲間であった[[藤堂平助]]は、伊藤たちが御領衛士として分離するときに、伊藤に付いていったのである。しかし、近藤の願いもむなしく、藤堂は斬り合いの中で命を落とす。
--その後、伊東の遺体の奪還を巡り、御領衛士たちと新撰組は京都市中の油小路で乱闘を繰り広げた。その結果、御領衛士たちは壊滅的打撃を受ける。
---[[永倉新八]]の『新撰組顛末記』によれば、「近藤は藤堂はできるならば助けるように永倉にいった」と記されている。かつて同じ道場仲間であった[[藤堂平助]]は、伊東たちが御領衛士として分離するときに、伊東に付いていったのである。しかし、近藤の願いもむなしく、藤堂は斬り合いの中で命を落とす。
-鳥羽・伏見の戦い
--油小路の事件から1ヶ月もたたないうちに、[[王政復古の大号令]]が発せられ、天皇中心の新政府が樹立される。
--[[徳川慶喜]]が大阪城に引き上げるのに伴ない、新撰組は京都を離れ、旧幕府軍として伏見に駐屯する。
--その翌年、旧幕府軍は薩摩・長州の軍勢を中心とする新政府軍と戦う。これが''鳥羽・伏見の戦い''である。
---近藤はこの戦いの前年に御領衛士たちに狙撃されて負傷しており、鳥羽・伏見の戦いに参加することはできず、大坂で療養を余儀なくされていた。代わりに、土方の指揮のもとで新撰組は奮闘する。
--旧幕府軍は後退するうちに、それまで友軍と見なしていた津藩に側面から攻撃されて総崩れになる。数日にわたる激戦により、新撰組は結成以来の同士である井上源三郎を始めとする、多数の隊士を失う大損害を受ける。
-江戸無血開城
--]]鳥羽・伏見の戦い]]に敗れた新撰組は、[[徳川慶喜]]の後を追って江戸に戻る。そして、甲陽鎮撫隊【こうようちんぶたい】として甲府城を目指し、新政府軍と甲州の勝沼で戦うことになる。
--[[鳥羽・伏見の戦い]]に敗れた新撰組は、[[徳川慶喜]]の後を追って江戸に戻る。そして、甲陽鎮撫隊【こうようちんぶたい】として甲府城を目指し、新政府軍と甲州の勝沼で戦うことになる。
--鳥羽・伏見の戦いの反省により、甲陽鎮撫隊も洋式を装備したが練度が低く、兵力も小さかったため、新政府軍に攻められ崩壊してしまう。
--甲州で破れたのち、いったん新撰組は散り散りになり、江戸で再開する。
---しかし、「共に会津に行こう」という永倉新八に対して、近藤は「永倉たちが自分の家臣になるなら同行してもよい」と答えた。これに永倉は憤然して、新撰組を去る。
--再起を目指す近藤と土方たちの新撰組は流山【ながれやま】に移動する。その直後に新政府軍に包囲され、近藤は投降することになってしまう。
--甲州勝沼村付近で戦いが起こったが、甲陽鎮撫隊は一方的に敗れ、再度江戸に敗走することになる。
-新撰組の分裂
--江戸に再集合した隊士たちは、近藤に指導力がないということで、永倉新八をリーダーとして会津へ向かうことに決定する。しかし、「共に会津に行こう」という[[永倉新八]]に対して、近藤は「永倉たちが自分の家臣になるなら同行してもよい」と答えた。これに永倉は憤然して、新撰組を去る。ここで新撰組は空中分解してしまう。
--永倉と決別した近藤の下には[[土方歳三]]が追いつき、また隊士を募って50人規模の新撰組を復活させ、流山【ながれやま】に移動する。その直後に新政府軍に包囲され、近藤は投降することになってしまう。
--ちょうどの頃、[[勝海舟]]が新政府軍との間で江戸開城の交渉にあたっていた。そして、近藤の投降から1週間ほどして、江戸城は新政府軍に明け渡された。
-近藤の処刑
--江戸無血開城の2週間後に、[[近藤勇]]は新政府軍によって処刑された。
-新撰組が再び分裂
--[[会津藩]]が鶴ケ城に篭って戦っている間に、新撰組は城外でゲリラ戦を続けていた。その頃、土方歳三と[[斉藤一]]は違う意見を持つようになる。その結果、9月4日に新撰組はまたしても2つに分裂する。
---土方歳三の意見は、会津はもう駄目だから、仙台へ行き、松島湾まで脱走してきたという[[榎本武揚]]の率いる旧幕府海軍と共にさらに戦うというものであった。
---一方、斉藤一の意見は、京都以来の恩義のある会津藩を絶対に見捨てられないというものであった。
-函館新撰組に転身
--土方歳三が蝦夷脱走軍の首脳の一人になったための組織改編され、これにより会津藩お預かりの佐幕派であった新撰組は、蝦夷脱走軍の正規部隊の一つに変身したと言える。
-[[函館戦争]]
--近藤の死の後も、土方は旧幕府の残党と一緒になって、新政府軍と戦い続けた。
--新政府軍との函館戦争のさなかに、[[土方歳三]]は戦死する。
--そして、戦争は新政府軍の勝利に終わり、幕末維新の動乱はひとまず終息を迎えることになる。

*壬生残留組二十四士 [#pef09b2e]

-清河の呼びかけに応じなかった13人に、共に壬生に残った11人を加えた数である。
--この11人は順次脱落して、最終的に13人プラス斎藤一となる。

*脱落してしまった11人 [#zcef8770]

**阿比留【あびる】鋭三郎 [#r9e4cc4e]

-対馬浪人。
-元来病弱で、壬生到着後、病状が悪化し、建白書に署名することもかなわず、二十四士の1人となったが文久3年4月3日に壬生で病死する。
-享年22歳。
-壬生寺に墓がある。

**家里次郎 [#x5c09e53]

-伊勢の儒医の養子。
-根岸友山の弟子となり、友山と共に浪士組に加わったが、近藤・芹沢一派と主導権を争い、文久3年4月24日に切腹させられた。

**池田徳太郎 [#f7b10b75]

-芸州浅野藩出身。
-浪士組の世話役の1人。
-上洛の道中の部屋割りなどを担当した。
-学習院への建白書には署名しなかった。
--思想は倒幕で、幕府のために江戸に帰るのを嫌ったためという。
-その後、脱走し、維新後は青森県権県令になるが、明治7年に病死する。

**遠藤丈庵【じょうあん】 [#j790cacb]

-武蔵忍浪士。
-浪士組の募集に応じて上洛したが、殿内の暗殺を知って、根岸友山らと江戸に戻り、新徴組に加わった。

**粕谷新五郎 [#oa79d4e7]

-水戸浪士。
-芹沢一派とも懇意であったともいうが、旧主・徳川慶篤【よしすみ】が江戸に戻ったのを機に江戸に戻った。
-その後、天狗党の乱に参加したが、中途で脱走し、捉えられて切腹した。

**神代仁之助【にのすけ】 [#e1027196]

-水戸浪士。
-浪士組の募集に応じて上洛したが、殿内の暗殺を知って脱走。江戸で新徴組に加わった。

**佐伯又三郎 [#t2c24ede]

-長州藩出身といわれる。
-京坂地方を浪々していて、浪士組の結成を知って参加したといわれる。
-文久3年8月10日に、京・島原に程近い田で斬首されたという。
--理由・殺害者などは不明である。

**清水吾一 [#x8f0d466]

-武蔵の造り酒屋の子。
-根岸友山の甥。
-友山と共に浪士組に参加した。
-殿内の暗殺を知って、友山らと共に江戸に戻り、新徴組に加わった。

**鈴木長蔵 [#w8025cd7]

-仙台藩出身。
-浪士組の募集に応じて上洛したが、殿内の暗殺を知って江戸に戻り、新徴組に加わった。

**殿内義雄 [#re528d60]

-上総国森森殿内の名主の子。
-建白書提出後、残留組の取りまとめを行ったが、近藤らとの間に反目があって、3月25日に三条大橋で近藤らに暗殺されたとみられる。
-享年34歳。
-新撰組内の初の内訌【ないこう】の犠牲者である。

**根岸友山 [#j6d10a2d]

-武蔵の豪農の出。
-浪士組の募集に応じて上洛したが、殿内の暗殺を知って江戸に戻り、新徴組に加わった。
-しかし、ここも間もなく脱退し、帰郷した。
-友山は浪士組に加わったときに、すでに満で54歳であった。
--浪士組最高齢である。
-明治23年に没する。
--享年81歳であった。


*参考文献 [#u846440a]

-『手掘り日本史』
-『幕末入門』
-『別巻・その時歴史が動いた 新撰組興亡史 幕末に青春を賭けた若者たちの軌跡』
-『メッタ斬り!歴史異聞録 幕末の真相へ!』
-『新選組 敗者の歴史はどう歪められたのか』