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*目次 [#v5ee01eb]

#contents


*ヴィトゲンシュタインの特徴 [#ra57bfbf]

-


*ヴィトゲンシュタインの軌跡 [#ua75afa1]

-[[ラッセル]]の『数学の原理』の末尾で「論理学を学ぶ全学生」に対して挑戦状をつきつけ、[[パラドックス]]([[ラッセルのパラドックス]]と呼ぶ)を解くように呼びかけた。
--これを読んだヴィトゲンシュタインはこの挑戦を受けることを決意する。ヴィトゲンシュタインの解決案は、[[集合]]そのものが疑わしい存在で、不確かな仮定であるというものであった。つまり、集合という概念を捨て去るべきだということである。
--ラッセルはヴィトゲンシュタインの独創的なアイデアに驚嘆するものの、この過激な解決方法を拒絶する。
--1911年に、ヴィトゲンシュタインはラッセルに会うためにケンブリッジに赴く。そして会うとすぐに、今まで学んでいた工学((父カールが「ルートヴィヒもヴィトゲンシュタイン家の役に立たねばならない」ということで、息子ルートヴィヒのために選んだものであった。))を捨て、ラッセルと共に哲学を学ぶことに決めてしまうのである。
-ヴィトゲンシュタインがトリニティ・カレッジの特別研究員(フェロー)として迎えられ、ほとんど何もない簡素な部屋で講義を行った。講義に出席する許可を与えられた学生は限られていた。選ばれた学生は自分でデッキチェアを持ち込み、ヴィトゲンシュタインが頭をひねり「哲学している」間は黙って座っていた。時折、ヴィトゲンシュタインは真剣きわまりない表情で「思想」を紡ぎだしたという。折にふれて、ヴィトゲンシュタインは誰か1人の学生を選び、質問攻めにしたという。この尋問に耐え抜いたただ1人は[[アラン・チューリング]]しかいなかったという。
---ある講義の際に、ヴィトゲンシュタインは「1つの体系―論理学や数学のような体系―は、たとえ矛盾を含んでいたとしても、確かなものでありうる」ということを口にする。これに対してチューリングは「矛盾が潜んでいるような数学で橋を架けようというのか。橋は崩れ落ちてしまうに違いない」と反発した。論理学では経験的な事柄を考慮しても何の役にも立たないためとヴィトゲンシュタインはいう。こういわれても、チューリングは怯まず「橋は落ちる」と主張し続けた。
---ある講義の際に、ヴィトゲンシュタインは「1つの体系 ―論理学や数学のような体系― は、たとえ矛盾を含んでいたとしても、確かなものでありうる」ということを口にする。これに対して[[チューリング]]は「矛盾が潜んでいるような数学で橋を架けようというのか。橋は崩れ落ちてしまうに違いない」と反発した。論理学では経験的な事柄を考慮しても何の役にも立たないためとヴィトゲンシュタインはいう。こういわれても、チューリングは怯まず「橋は落ちる」と主張し続けた。

*ヴィトゲンシュタインの主張 [#u601bdb9]

**「論理的命題は、その構成要素がどのようなものであっても、真偽を決めることができる」 [#h222c5d0]

 例えば、「このリンゴは赤いか、赤くないかのどちらかだ」という命題を考えてみる。この命題は常に真なので、トートロジーである。~
 一方「このリンゴは赤くもなければ、赤くないこともない」という命題は常に偽(矛盾)になる。

 よって、「ある論理的命題がトートロジー(常に真)なのか、矛盾しているのか、それともそのどちらでもないか」を決める手立てを見つけることが大切になる。この方法を見つけたら、すべての命題の真偽を決定するルールを手にした事になる。そして、このルールが1つの命題として表現されたなら、それがすべての論理の基礎となるとヴィトゲンシュタインはいう。


**「言語は『世界を映し出す像』(ピクチャー)を与える」 [#lc3eea9c]

 『論理哲学論考』では有意味に語りえるものの限界を明確にすることが目的である。この目的を実現するためには、当然ながら「言語とは何か」という問いへと導かれる。

 この問いに対するヴィトゲンシュタインによる答えは「言語は『世界を映し出す像』(ピクチャー)を与える」というものであった。

 言語は原子命題((分割不可能な最も基本的な命題単位。))まで還元されるなら、現実を映し出す像(ピクチャー)からなっている。そうであればこそ、様々な命題はすべての現実や事実を描写できるのである。そして、命題と現実は同じ論理的形式を持っていて、命題も現実も、論理から外れることは不可能なのである。

 その上、言語の限界が思考の限界ということになる。思考も論理から外れることは不可能だからである。つまり、われわれは言語の限界を超えることはできない。言語の限界を超えていくことは、論理可能性の限界を超えることに他ならないのである。

 これらの考察により、言語を構成する論理的な命題は「世界を映し出す像」であり、それ以外の何物でもないことがわかった。それ以外のことをいうことはできないのだ。これは何を意味するだろうか。ある種の事柄については、まったく語ることができないということである。そうだとすると、残念な結果になってしまう。『論理哲学論考』の主張自身が、この「語りえぬもの」のカテゴリーに属してしまうのである。『論理哲学論考』の言葉は、「世界を映し出す像」ではないからである。

 ヴィトゲンシュタイン自身もこの事実に気付く。そこで、この問題を解決するために、従来の着想に戻っていく。ある種の事柄については、その正しさを「語る」ことはできない。それでも、その正しさを「示す」ことはできると考えるのである。『論理哲学論考』は「示す」ことしかできないものを「語ろう」としていると認めようとしたのである。

 ところで、「語りえぬものには、沈黙しなければならない」(『論理哲学論考』7)とも主張しているし、それが妥当だと思われる。それにも係わらず、ある種の事柄についての正しさを示すことはできると認めるのはおかしいと思われる。


**「言語で語ることのできないものがある。しかし、それは自らは開示する(自ずと示される)。それは神秘である」(『論理哲学論考』6.522) [#p18a4d08]

 言語とは「世界を映し出す像」に過ぎないのだから、神は語りえぬもののカテゴリーに属されると考えられる。そこで、神は語りえぬものと仮定する。

 ところが、6.522によれば、神のようなもの(神秘)が存在するという。語ったり、考えたりすることはできないが、他の手段があるというのである。

 しかし、これは納得できない。しかも、ヴィトゲンシュタイン自身が述べている7と矛盾している。


**「語りえぬものには、沈黙しなければならない」(『論理哲学論考』7) [#q4e77659]

 ヴィトゲンシュタインのこの洞察と比べて、よりコンパクトな言葉で鋭い洞察を表現した哲学者は少ない。例えば、次の哲学者ぐらいしかいない。

-[[ソクラテス]]
--「汝自身を知れ」
-[[デカルト]]
--「我思う。ゆえに、我あり」
-[[ニーチェ]]
--「神は死んだ」


*『論理哲学論考』 [#v7ec4382]

**『論理哲学論考』の7つの主要命題 [#o1ca6273]

+世界とは、現実に生起している事柄の全てである。
+現実に生起しちえる事柄、即ち事実とは、様々な事態の成立である。
+様々な事実の論理的な像が思想である。
+思想とは、有意味な命題のことである。
+命題は、様々な要素命題の真理関数である。
+真理関数の一般的形式は&mimetex("[\bar{P}, \bar{\xi}, N(\bar{\xi})]");である。
+語りえないものについては、沈黙しなければならない。


**『論理哲学論考』の課題 [#b233d40f]

+6.522と7が矛盾している点。
+言語と現実が何らかの関係を持っていることは多くの人が認めるだろう。しかし、本当に「論理の形式」がこの関係を形作っていると言い切れない。それなのに、『論理哲学論考』では証明無しに、論理の形式が関係を形作っていると言い切っているのである。
--『哲学探究』では言語は「世界を映し出す像」ではないという。言語とは複雑に絡み合ったたくさんの糸から織り成されるネットのようなものであるという。言語の誤用を犯し、使用できないはずの状況でその言葉を用いると、われわれの理解はもつれてしまう。哲学の課題はこのもつれた糸を1つ1つ解きほぐすことになるという。
+仮にヴィトゲンシュタインの主張通りだったとすると、語ることのできない物事の範囲はとても広いものになってしまう。
--文化的な生活を送る限り、語らないわけにもいかない物事も数多くその中に含まれてしまう。
---例えば、善悪・芸術の言語など。芸術の言語は本質的に論理学の論理とは違うものに則っているからである。比喩を用いる限り、芸術作品はいわば自分自身であると同時に、自分自身ではない(他のものである)。このことを評して「芸術作品が表現している(語っている)ものは、表現しえない(語りえない)ものである」などといったら、矛盾することになってしまう。
---それどころか、「言語」そのものも「語りえぬもの」の1つになってしまうという反論もある。


*参考文献 [#o4be0141]

-『90分でわかるヴィトゲンシュタイン』
-『この一冊で「哲学」が分かる!』