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*目次 [#t73acb08]

#contents


*はじめに [#ia14f74d]

 嘉永【かえい】〜安政期は江戸に限らず、陸奥沖、仙台、東海、南海などの広範囲において大地震が日本を襲っている。


*安政の大地震 [#sd0a4d0d]

-安政2年(1855年)に発生。
-推定マグニチュードは6.9、江戸中心部の直下型地震。
--震源地は[[荒川]]の河口付近だと推定されている。
--[[関東大震災]](1923年)のM7と比べると小さかったが、直下型の大地震で家屋の倒壊による被害が大きく、多数の死者を出した。
-被害が大きかったのは低地、即ち御曲輪内【おくるわない】((江戸城の外濠に囲まれた区域。老中や大名の屋敷が立ち並んでいた。))・小川町・小石川・下谷・浅草・本所・深川など。
--被害が比較的少なかったのは高台、即ち青山・麻布・本郷など。
-安政の大地震以前に江戸を襲った大地震は、元和【げんな】の地震(1615年)、慶安の地震(1649年)、元禄の地震(1703年)がある。それから150年以上経っているので、人々に危機意識がなかったと言える。
-被害者
--死者:4,293人(ただし、火災による死傷者は含まれていない)
---深川:1,186人
---本所:858人
---吉原:630人
---浅草:578人
--負傷者:2,754人
--倒壊家屋:14,346軒+1,724棟
--潰れ土蔵:1,404個所
--水戸藩の思想家・[[藤田東湖]]【とうこ】は、この地震で死んだ。
--水戸藩では[[藤田東湖]]・[[戸田蓬軒]]【ほうけん】という[[水戸斉昭]]の両腕とも呼ばれた名刺が圧死してしまう。
---[[西郷隆盛]]は藤田東湖の死を知って、興奮の余り自ら髷を切ろうとして同僚に止められた。
--吉原の遊女も廓【くるわ】の外に出られなくて被害にあった。穴に隠れていたが、火災になり、後で掘り出したら、皆窒息死してたようだ。
---律儀に規則にしたがったからこうなってしまった。
--歌舞伎役者の3代目中村仲蔵は、地震にあったとき料亭にいて、屋根に上がって命拾いしている。
-笠亭仙果【かさていせんか】(本名:大宅弥太郎【おおややたろう】)は『なゐの日並み』で安政の大地震についても書き残している。
--題名の「なゐ」とは「地震」の意味の古語である。
-鯰【なまず】を主人公にした風刺画である鯰絵が大流行した。
-人々がショックから立ち直り、ようやく後片付けに動き出したのは3日後の10月5日からであった。倒壊した家から死亡者を引き出し、棺おけに入れて寺に運ぶ姿が至るところで見られた。
-余震は11月になっても続き、有感地震だけで100回を超えた。
--マグニチュード3〜4程度の地震があり、中には5以上と思われるような大きな地震もあり、倒壊しかけている家が潰れたりもした。
-略奪は少なく、10月6日だけに2例だけが記録されている。
++深川大島町【おおしまちょう】にある札差商の倉庫が崩れたのを見て、近所の者たちが米などを持ち出そうとした。巡回中の町奉行所の同心たちがそれを見つけて、現場で取り押さえた。
++本所にある、被害をまったく受けなかった旗本屋敷に2日から何も食べていない窮民5,6人が助けを求めにきた。旗本屋敷の者が断って追い返すと、200人ほどが怒って押しかけた。屋敷の家来が応戦しようとするのを、主人の旗本が押しとどめて、「今思えば彼らの気持ちを察してやらないで追い返したのが悪かった。屋敷が揺り潰され、火で焼かれたと思って、彼らの自由にさせておけ」と命じた。乱入した窮民たちは玄関を打ち壊し、物置の穀物を引き出して、庭で分け合った後で引き上げていった。家の者たちが抵抗しなかったので、暴力を受けた者はいなかった。
-関東付近の富農や豪商が災害復興のために幕府に献金や献物を行った。
-5日頃には江戸周辺の大名家では、米などの生活物資とともに救援隊を江戸に送りはじめた。
--御三家のひとつである水戸藩の場合には、小石川・駒込・本所の3箇所にある水戸藩邸がすべて被害を受けたこともあり、5,000両ともいわれる資金や奉行奉公や大工を江戸に派遣した。その後も大工や人足を派遣し、味噌や米を輸送した。また、10月20日以降には約400人の人足をお手伝いとして江戸に上らせ、藩邸の整理ばかりではなく、一般民家の整理にも当たらせた。
-11,12日には各所にお救い小屋が建ち、町奉行所が食料の配給を始めた。
-8日には幕府が物価統制令を布告し、暴利を貪ることを禁止したために、物価の高騰もある程度は抑えられた。


*越後大地震 [#d4489779]

-文政11年11月12日の朝8時頃、越後の三条町・長岡・与板・和木野町など十里四方に大地震が起こった。
-推定マグニチュード6.9程度。
-寺社や民家が倒れ、人々は慌てて戸外に逃げたため同時に火事が起こった。
-死者3万余り
-余震は14日まで頻繁に続いたと[[かわら版]]にある。


*京都大地震 [#sd46a3fa]

-文政13年(1830年)7月2日午前4時頃、雲もないのに天空に雷のような音がした。それと同時に大地が大揺れにゆれ、町家や土蔵が倒れて死傷者が続出した。
-公家も町人も皆飛び出し、その夜は屋外で野宿した。
-翌3日の朝までに余震およそ124回、その後も1時間に7〜10回の地震が続いた。
-[[二条城]]の石垣はくずれ、地面に7,8寸の裂け目が生じ、北野天満宮では78本の石灯籠がすべて傾いたといわれる。
-死者280人、禁裏をはじめ有名寺社が相当被害を受けた。


*参考文献 [#xbc66f75]

-『大江戸見聞録』
-『山本博文の江戸学講座』
-『かわら版 江戸の大変 天の巻』
-『江戸を騒がせた珍談、奇談、大災害』
-『西郷隆盛【新装版】』