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  • カント へ行く。

*目次 [#j627508f]

#contents


*カント [#h45833af]

-イマヌエル・カント 
-1724〜1804 
-当時のプロシア領、現在のソ連領カリーニングラード生まれ 
-馬具職人の父を持つ 
-デカルトと並んで近代の哲学の出発点。 
-哲学用語と概念の一大独占的製造工場。カント以後の哲学者は、-これを使わずに哲学を語ることができないといえる。 
-記号論の創始者 
-社交好き 
-小男


*思想 [#n9044926]


**理性の二律背反 [#n25a7337]

 カントがまず考えたことは、どのような事柄について[[二律背反]]という奇妙な現象が起こるのかということであった。カントは毎日散歩するのが習慣でしたが、そのとき二律背反についての4つのテーマを発見した。

+世界の時間的・空間的無限性
+物質の構造
+自由の存在
+神の存在

 それぞれについて、正命題とそれに矛盾する反対命題が共に証明できるというものである。

 例えば、世界の無限性において、正命題は「世界は空間と時間において限界を持つ」、反対命題は「世界は空間と時間において無限である」と主張する。普通はこの2つの命題のうち正しいのは片方だけである。しかし、カントはどちらも正しいことを証明してみせる。よって、この2つは二律背反な関係にあるわけである。そして、さらに奇妙なことに、今度は両者の命題とも証明不可能であることも証明してしまう。いずれもカントの合理的かつ論理的な理性の手続きによって行われるのだ。

 このような深い思索の結果カントが発見したことは、無限とか自由、神の存在といった事柄が物自体に属することであって、人間には認識できないということである。理性が相手にすることができるのは、現象の世界に限られるということである。 

 このように理性の限界を突き止めるということによって、理性が何であるかを明らかにできる。両端がわかって、初めて物の長さが分かるのと同様である。このように理性の極限を見極めたのはカントが最初であった。

[補講]ヴィトゲンシュタインが『論理哲学考』の最後のほうで、「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と書いているが、カントが発見したことを繰り返して言っているに過ぎない。

***二律背反の例 [#e9de1eb7]

 ところで、カントは二律背反の例を幾つか挙げた。 

 第一の二律背反においては、「世界には時間的な始まりがあり、空間的に限界がある」が定立であって、反定立は「世界には空間的な始まりも限界もなく、時間に関しても空間に関しても無限である」というものである。カントはこれらの命題は両方とも証明できると主張しているわけだが、近代論理学が多少なりとも正しいとするなら、どちらかの証明は不可能でなければならないはずである。


**悟性 [#i9834583]

 カントは情報を処理するため、人間には悟性という機能が備わっていると考える。 「悟性」とはわかりにくいが、英訳すると「understanding」となるので、理解力と考えて構わない。

 対象に関する情報を理解するのにあたって、悟性は一定の枠組みをあらかじめ用意しており、その枠組みは経験を超えた先天的なもの(つまり、純粋なもの)であると見なした。これが純粋悟性概念あるいはカテゴリー(範疇)と呼ばれるもので、量や質、関係、様相などに関連して全部で12項目あることをカントは突き止めた。また、完成にも空間と時空という純粋な形式があることをカントが発見した。

 要するに、カントの認識とは、次のようなものである。

>「感性を通して得た情報を、悟性がカテゴリーというふるいにかけることによって、対象が難であるかが分かる。我々はカテゴリー、あるいは概念と言うものを使わずに対象を認識することはできないし、また、感性から与えられる情報なしには何も考えることができない。感性と悟性の組み合わせによって、初めて認識が成立するのである」


**経験と体験 [#c0be7a66]

 経験とは受動的なもので、体験とは能動的(積極的)なものである。カントによれば、人間は経験という色眼鏡でモノを見ていることになる。といっても、経験のほかにも人間の認識を支えるものがあると『純粋理性批判』で述べている。

>我々の認識が全て経験を以って【モッテ】始まるといえ、それだからといって、我々の認識が全て経験から生ずるのではない。なぜならば、おそらく我々の経験認識ですら、我々が印象(直観)によって受け取るものと、我々自身の認識能力(悟性)が・・・(中略)・・・自分自身から与えるものとの結合が真実であろうからである。 


 以上のことから、「我々自身の認識能力が自分自身から与えるもの」も人間の認識を支えているといっていることが分かった。それは感性と悟性である。

 
-狭義の理性={理性}
-広義の理性={理性、思惟、悟性}

 理性は原理を求め、思惟は判断を加え、悟性は対象を整理する。人間は、悟性と感性(時間・空間の中で対象を捉えている)と経験で現象を捉える。


**世界市民的意味における哲学の分野 [#j0ae4691]

(1)私は何を知ることができるのか~
(2)私は何をなすべきか~
(3)私は何を望んだらよいか~
(4)人間とは何か

 (1)の問いには形而上学、(2)の問いには道徳、(3)の問いには宗教、(4)の問いには人間学が答える。(1)〜(4)に一貫していえるのが、人間学に関係しているということである。つまり、カントは「哲学は人間学である」と主張したわけである。

 (1)について考察する前にもうひとつつの問いがある。「私はどのようにして知ることができるのか」という問いです。これが[[認識論]]と呼ばれるもので、すべての哲学の出発点といわれている。


**理性について [#zc85315f]

 我々人間は、自分だけのために、あるいは自分の傾向性を利するために、勝手に法則の例外を設けようとする。だからもし我々が一切のものを一定不変の観点、即ち理性の観点から考察するならば、自分自身の意志のうちに矛盾を見出すことになるだろう。つまりある原理が客観的に普遍的法則として必然的であるのにかかわらず、主観的には普遍的に妥当しないで例外を許容することになるという矛盾である。

**道徳について [#y28d065a]

 世界においてはもちろん、この世界の外でも、絶対に善なるものは我々の善意志だけである。能力・才能・気質がいかにすぐれていても、善なる意志を根底におかない限り、使い方次第ではいつ悪に変化してしまうとも限らない。よってすべての善行為は我々の善なる意志から発生し、それ以外のいかなる起源をも持つものではない。

 しかしながら善意志という根本的な実在にとどまっていては、まだ哲学へ発展する手がかりは与えられない。そこで善意志の概念を展開するためには[[義務]]の概念を導入する必要がある。義務の概念は最高善の概念を含むからである。義務とは善なる行為のための必然性である。だから善行為は、義務という道徳的概念に基づいてのみ可能である。カントは義務の尊厳を高らかに謳っている。

 次に義務の概念から道徳的法則に発展する。この道徳的法則の起源は、理性をそなえている存在者、即ち理性的存在者としての我々の理性のうちにある。よって道徳的法則は我々の理性から出生したものということである。我々の意志が絶対に善であるためには、道徳的法則が幸福やそのほかの一切の利害関係を顧みることなく、直接に意志を規定しなければならない。

 ところで、我々が何からの行動を企てる場合には、それぞれ自分なりに行為の原則を決めて、これにしたがって行動しようとする。このような主体的原則は[[格率]]と名付けられる。しかし格率は元々主観的なものであるので、善なる行為ばかりでなく、また悪なる行為に適用される。したがって嘘をつくことも、また人を欺こうとすることも格率となりえるのである。格率はたとえ主観的にせよ我々が自分で決めた原理であるから、まずこれを根拠として客観的な道徳的法則に近接し、またできるならこれと一緒にすることに努めるほかはない。

 我々の意志は残念ながら善と悪を兼ねている。善を欲しながら、色々な事情や環境の影響を受けてしばしば悪に陥らざるえないのが人間の本性である。意志に命令する方式が命法である。命法は「なすべし」「なすべからず」という語によって表現される。だから命法は意志に対して強制となる。

 よって意思が善あることを欲するならば、その場合の行為の格率は必ず道徳的法則に向かわなければならない。定言的命法とは、「格率がすべての人に妥当する普遍的法則となることを欲するような格率にしたがって行為せよ」という命法である。この命令にしたがって、これを遵守することが道徳的行為を算出するための根本的条件である。この道徳的法則は自分自身の理性に由来する。理性は道徳的法則を自ら創造して、これを自分自身に課する。これを''意志の自律''という。意志の自律は道徳の最高原理である。意志の自律の反対は、意志の他律である。意志が自分自身を規定すべき原理を、何によらず他に求めると、そこに意志の他律が生じる。他律は理性の純粋な働きを傷害する。そこで意志の他律から、道徳の一切の不純な、または偽りの原理が発生する。意志の他律は道徳にとって醜悪だが、意志の他律を批判したうえで承認したものがあればそれを自分の格率となすことができるのである。

 意志の自律が成立するためには意志の自由という最高の条件がなければならない。自由は消極的には一切の経験的な、即ち自然必然的な条件からの自由を意味する。しかしこの消極的自由によって一切の不純物をなくすことができれば、そこに自ずから理性の純粋な働きであるところの矛盾の自由が発生する。この積極的な意味での自由は、ひとつの状態なり生起なりを自ら始める能力に他ならない。それだから自由は経験において原因と結果との結合に示されるような自然必然性とはまったく類を異にする意思の特性である。したがって自由は経験的概念ではなく、先見的概念である。つまり自由は理念である。

 経験界における自由は自由という理念、即ち原型の似姿にすぎない。しかし自由も自律も単なる理念であり、理念の性質上これに対応する実在は、経験の中には見出せないとすると、自由も自律も妄想の所産ではあるのではないかという疑問が起こるかもしれない。自律も自由も、眼で見、手で触って知られるものではない。しかしこのような理念が原型として我々の心のうちに存在するのでないということを判定する基準が失われてしまうだろう。理念は人間の理性の本性にしたがって我々に課せられたものであり、決して単なる仮構物ではない。


**外部世界に自存する何かの実存性 [#i3388361]

 カントは外部世界に自存する何かは実存すると考えた。しかし、これは決して言い当てられないと考えた。これは''物自体''と呼ぶ。

 次に、我々は物自体を正確に認識することは決してできないといえる。

 人は物自体を認識するときに自分の感覚にたよる他はない。これは感性という道具である。この道具は不完全かも知れないが、人間である以上共通に違いない。すると、ゆがんだ形で不完全に捉えられる物自体の像は誰にとっても共通のものであり、したがって共通了解可能性は保障される。つまり、カントは共通了解可能性の最終的な根拠は物自体の実存に置き、二次的な根拠を物自体の認識枠組の共通性に置いたわけである。


**万人における共通する絶対的な真相の認識 [#cc3dd65f]

 カントは一人の読者のために新しい感覚器官を創造し、新しい感覚を開いた。ニュートン力学のように、カントの認識にも、万人にも共通の絶対的な真相の認識がある。 現在は、アインシュタインの相対性理論(哲学で言えば、エルンスト・カッシーラ)的が主流である。


**批判 [#lc18f207]

 批判(クリティーク)とは、ギリシア語のクリーノ「よいものを選別」という意味がある。カントは著作で批判という言葉を多用している。いずれも「人間とは何か?」ということについて書かれている。 

-『純粋理性批判』 
--何を知ることができるのか 
--人間の理性による認識はどこまで可能なのか? 
-『実践理性批判』 
--何をすべきなのか 
--道徳の問題。行動の価値判断の元は? 自由とは? 
-『判断力批判』 
--何を望み、期待することができのか 
--宗教の問題。神の存在を期待できるのか?


**格律 [#h975fe48]

 格律という用語は『実践理性批判』の冒頭で次のように定義されている。 

>実践的原則とは、意志の普遍的規定を含むような命題のことである。そして、この普遍的規則は、若干の実践的規則が従属している。これらの実践的原則は、主観がかかる意志規定の条件を主観自信の意志にのみ妥当すると見なす場合には、主観的原則であって、格律と呼ばれる。

 簡単に言えば、「格律とは自分の意志を決めるに当たっての主観的規則」ということである。さらに簡単に言えば、「格律とは自分はこうしたいということである」となる。

 格律はあくまで主観的なものであるので、人によって様々である。例えばタバコを一日一服と格律を決めていれば、他のタバコ好きは好きなだけ吸うという格律を決めている場合もある。また、悪人には悪人なりの、善人には善人なりの格律がある。ここでカントが考えたのは、すべての人がしたがわなければならないような客観的で普遍的な実践的な法則はないだろうかということである。問題は道徳の内容ではなく、道徳律そのものの存在である。数学でいえば、具体的な存在ではなく、存在自体がありうるかということである。 

 カントは人間の理性から道徳から導き出します。『純粋理性批判』で見てきたように、どんな人間にも通用する認識形式が理性に隠されているから、カントは人間の理性から道徳を導こうとしたのである。理想こそが、人間にとっての最後のゆるがない杭と考えたわけである。よって、理性から導き出される道徳律は、理性の本質上、次のような性格を備えていることになる。 

-感性の時間・空間を越えていること(因果律を超えているということ)
-悟性のカテゴリーを越えていること(論理理性に立脚する学問を超えていること)
-普遍的であること(真理であること)
-考えられるが、認識はできないこと(現象を超えていること)
-しかし、実践行動として現すことができること
-いかなる目的ももたないこと。また、手段でもないこと。 
-しかし、それ自身が(手段でなく)目的であること 
-内容ではなく、形式であること


*カントの誤解 [#xc9c13ca]

-第1の誤解
--共通了解ということの意味を、私の現象と他者の現象が一致することと捉えてしまったこと。 
-第2の誤解
--現象には原因があるという論理がメタレベルとしても通用すると錯覚してしまったこと。 

 因果性を全てに優る原理と考えるのは近代合理主義者の悪い癖で、「現象には原因がある」という思い込みは人間に共通の脳の機能であって、人間を離れて有効なわけではない。



*カントの言動・文献 [#h2d29fa4]

-「形而上学とは人間理性のあらゆる開発Kulturの完成である」(『純粋理性批判』)
-「開花Kulturのみが、人類が自然から与えられた最終目的である」~
他の著書でもKulturを強調している。
-「純粋理性にとって、避けることのできない課題は、神、自由および不死(霊魂の不滅)である」(『純粋理性批判』の冒頭より)~
神と自由はわかるとして、霊魂の不滅とは突飛のように考えるかもしれない。しかし、その「問題の問題性」がよく飲み込めないままに読みつづければ、意外なことがわかる。カントは霊魂の不滅を信じ、そのうえ他の天体に人間と同じような理性的存在が棲息しているを真面目に信じていた。つまり、カントは霊魂の不滅と、宇宙人の存在を信じていたということである。
-カントはルソーの『エミール』を読んで大変感動した。この感動的なルソー体験によって、カントはまずケーニヒスベルク大学での「人間学」に取り組んだ。また、それと並行して、「自然地理学」の講義も行った。
-カントの著作活動は、前批判期と批判期に二部される。前半に『純粋理性批判』、後半に『実践理性批判』『判断力批判』が出版される。 
-「一人で食事をすることは、哲学する者にとっては不健康である」


*カントに関する言動・文献 [#h1605797]

-「カントの生涯の経歴を書くことは難しい。カントには生活も歴史も無かったのだから」ドイツの詩人ハイネ 
-《ドイツの哲学者ショーペンハウエル》「カントの教説は、それを理解したいいかなる人の理解者の中にも、精神的に生まれ変わったとみなされていいほどの大きな、抜本的変化を引き起こす」 
-《ゲーテ》カントより25歳下であるが、カントを読んだときの感動~
「自分の生涯で最も楽しい時期を過ごすことができた」 
-《詩人のヘルダーリン》「カントはわれらの民族のモーゼである」
-詩人シラーはカントの美学理論に傾倒して、自ら芸術論を書き上げた。
-トルストイは『戦争と平和』を書くに当たって、独自の歴史観を作り上げる必要があった。そのときの重要な参考書になったのが、『純粋理性批判』であった。~晩年、カントの2番目の批判哲学書『実践理性批判』を愛読して、日記にしばしば感動の言葉を記し、友人にもこれを読むように勧めている。
-ドフトエフスキーは、『純粋理性批判』をシベリアの流刑地で読んだといわれている。『カラマーゾフの兄弟』には間との議論を念頭において、それに鋭い疑問を突きつけるような箇所がいくつもある。
-埴谷雄高は『純粋理性批判』を獄中で読み、「目眩むような旋律を覚えた」といっている。彼は『純粋理性批判』をドイツ語で読む自分の姿を、ターフェル・アナトミアを解読する杉田玄白に例えて、カントを読むことによって精神的に生まれ変わったという意味のことを感動を込めて記している。

*カントの混乱 [#i1b73d8d]

 かつてカントは、原経験としての空間と物理的空間と数学的空間を混同した。彼は3つの概念をアプリオリと綜合的判断の共通部分に設定し、1つの空間とその幾何学という名で説明したのである。

 カントは『純粋理性批判』の中で次のように述べている。

「幾何学は空間の性質を綜合的にしてしかもアプリオリに限定する学である。空間についてこのような認識が可能であるためには、空間とはそもそもいかなるものでなければらないだろうか。それは本来直観でなければならない。なぜならば単なる概念からはその概念を超越するどんな命題も導きだすことができないのに、幾何学はそのことをするからである。この直観はしかしアプリオリに、即ち対象のあらゆる知覚に先立って我々のうちに見出され、したがって経験的でなく、純粋なる直線でなければならぬ。なんとなれば、すべての幾何学の命題、例えば空間は3つの方向を持つという命題の成立には必然性の意識を伴っているからである」

 アプリオリな綜合的判断が存在するかという形式上学の問題以前に、多くの空間が氾濫する現在ではこうしたカントの見解は支持されていない。

*参考文献 [#se4802cd]

-『道徳形而上学原論』
-『岩波科学ライブラリー49 バナッハ・タルスキーのパラドックス』
-『哲学からのメッセージ』 
-『構造主義科学論の冒険』池田清彦 
-『この一冊で「哲学」が分かる!』(三笠書房) 
-『ペンローズのねじれた四次元』
-『次元とはなにか 高次元への扉を開く』
-fiqueさん誤植指摘Thanks!